道道29号上磯厚沢部線 美味しそうな名前の梅漬峠お知らせ梅漬峠について少々。古くは、アイヌは、茂辺地越え、茂別越えと呼んでいた安政年間からある山道で、改修開削してもこの峠の西側にある現在の稲穂峠がある木古内山道より不便であるといわれていた。 大正10年には稲穂峠の道は改修が終わり、梅漬峠の道も昭和2年になってようやく開削に着工し、昭和12年に全線完了した。しかし、豪雨や融雪によって橋の流失、道路の崩壊がおこりわずか数年で、通行途絶となった。 戦後になり、改修陳情の結果により昭和24年にようやく改修工事が完了し、昭和29年に道道に認定され、昭和32年から改良工事が始まった。 今回走った感じでは、その際に作られたであろう2車線の橋が多数であることが分かった。 梅漬峠の由来 物資運搬の人夫たちが、この峠で一休みし、昼食を取り始めると、自分たちの荷物の中に梅漬の樽があるのに目を付けた茶目っけの一人が、「殿様に叱られてもしかたなかんべ」と言って、樽の中の蓋をとってつまみはじめると、他の連中も「俺さも一つ」と手を出して「うめ〜梅干しだな〜」と一同笑いさんざめきながらちょうだいしたという昔話から「梅漬峠」と呼ばれるようになった。 2003年9月、北海道から引越しした年の秋口に車で函館に再上陸した。 函館からすぐの道道29号上磯厚沢部線の梅漬峠を走った。 昨夜まで雨が降っていたが天気も回復しているが、昨日の雨でダートの路面が気になる…。 上磯町茂辺地市街の旧国道228号から道道は山間部に入っていくが、案内板は無い。 津軽海峡線の踏切を渡ったところに道路情報板があり、そこには赤で「通行止」と表記されていた(1)。通行止なのか〜、夏に台風も北海道を直撃したし残念だな〜と思ったが、とりあえず行止りまで行ってみることとする。 舗装路には(2)のような この先8kmから砂利m値15kmあり という案内が2ヶ所あった。
踏切から約10キロで舗装路はダートになり(4)、道幅も狭くなる。約1キロで(5)の大型車通行不可の看板、その100M先にゲートと分岐がある(6)。
道道は西股川沿い(7)の渓谷を走るが水面は殆ど見えない。クネクネ道だが勾配は緩やかで(8)、道幅もありすぐ離合できるが、所々に半径のきついカーブもある。
峠からの景色は木々に囲まれ良くない。木々の僅かな隙間から厚沢部方向を見た景色がかろうじて見れる程度である(15)。 下りは道幅も広く緩やかに下っていく(16)。
1キロほど下るとススキの斜面が現れ(18)、この付近では砂利は撒かれていないが道路2車線分のスペースが取られている。
斜度も無くなり、再び2車線分ある欄干の色の違う橋を2つ渡り(21、黄色と緑)、正面に標識の裏側が見えてくるとその先は舗装路になる(22)。
峠を越えて舗装路になってから通行止がある訳も無く、結局通行できた訳である。 舗装路は昔からの道を拡張して舗装したような感じの道で、佐助沢川に沿ってカーブが続く(24)。この区間の舗装路にある橋は昭和40年代の橋(25)である。ちょうど(21)の橋を舗装路にしたような感じだ。
砂利道部分約16キロ 路面★★☆☆☆ 景色★☆☆☆☆ 2003年9月中旬走行 2010年1月現在、2005年秋頃から長い間通行止めが続いている。尚もともと冬季は通行止。 この道路の他に道南の2つの主要峠を紹介する。下記の峠が整備されたため、その2つの峠との間にある今回紹介した梅漬峠は二度と開通することは無いだろう。 中山峠 函館から中山峠までは江差山道と呼ばれ、その先は、鶉山道、鈴鹿道路と呼ばれていた。鈴鹿道路の由来は、1858年安政5年に江差の豪商「鈴鹿甚右衛門」が私財800両を投じて山道開削をした功績をたたえたためである。 1923年大正12年、峠に延長115.6m、幅員5.5mのトンネルが開通、 昭和28年2級国道函館江差線となり、峠の改良工事が始まり、昭和41年延長580m、幅員7mの新トンネルが完成、昭和52年に全線舗装された。 令和5年(2023年)、2代目のトンネルの老朽化、防災面を考慮し延長781m、幅員9mの3代目のトンネルが開通した。 稲穂峠 アイヌがこの峠を越えるとき「イナウ」を捧げたことから名がついた。和人も利用しており、木古内山道と呼ばれており、鶉山道が開削されるまでの唯一の東西横断道路。 1817年に幕府が改修し大正10年に馬車の通れるように改修工事、昭和37年改修工事で150mの吉堀トンネルが完成。 平成28年(2016年)急カーブと急勾配の連続、吉堀トンネルの大型車両交差困難の問題を解決した1506mの新吉堀トンネルが開通した。 |
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