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ギャラリー

珍北海道紀行 ROADSIDE HOKKAIDO

      
 

ハヨピラ自然公園 (通称UFO基地)お知らせ

ハヨピラ関連の詳細はページ下部にまとめてあります。

平取町の中心集落からやや離れた山の尾根に白い三角形のコンクリートが見える。

 

ここがハヨピラ自然公園、通称UFO基地なのである。何故ココにUFO基地があるのか? ハヨピラはアイヌ文化神オキクルミカムイがカムイシンタという「空飛ぶ龍」に乗って降臨したとされる伝説の地とされているからである。。



自然公園の入口、なかなか良い感じで、この坂を上がっていくとオキクルミカムイ像が祀られ急な階段と三角形が・・・。


 

オキクルミカムイ像は、コンクリート製。室蘭市の立雲寺住職林舜祥が昭和10年建立。平取町内今とは違うところに設置されていたものをこちらに移転設置した。
作られてからだいぶ年月が経っているような文化財的価値もある。



近くには同じコンクリートでも製造年月日は大きく異なるジェット飛行機型のオブジェは航空記念碑?

 

自然公園中央の旧太陽のピラミッドの階段は、かなりかなり急なので上がるのが大変。1966年にはここは白に塗られた階段として存在していた。よくこの斜面を整備したなというのが率直な感想。階段の中央には、花壇がある。
階段の中腹にはUFOのオブジェ。さらに急すぎる階段が山頂のピラミッドに向かって続いている。

 

1065年に完成したモザイクタイル、その上のには記念塔。

 

階段と共に出来たUFOのオブジェ。撮影時、デジカメの設定が滅茶苦茶になって露出が狂って殆ど写真が無駄となった。補正しての公開だが、これもUFOのせいなのか?。

ここまでは2002年5月訪問

  
2005年4月訪問時は、閉園となっており、ピラミッドの赤い○が壊れていた。


 
2006年11月再訪問時も荒廃が進んだ感じはなかった。

平成30年10月2日〜12月2日の間、 沙流川歴史館特別展として「ハヨピラのいま・むかし」展が開催された。





以下は平成30年10月から12月に開催された「ハヨピラのいま・むかし」展に関しての鬼峠様から頂いた資料をもとに編集した。


 松村雄亮によって設立された日本の民間UFO研究団体である宇宙友好協会(CBA、コズミック・ブラザーフット・アソシエーション)が、アイヌ民族の神オキクルミカムイは古代日本列島に降り立った宇宙人のブラザーだったとして、1964年に北海道平取町にモニュメントを配した記念公園、「ハヨピラ」を建設することを計画する。
 建設は、業者に寄るものではなく、CBA会員自らが設計工事を行った。そのため非常に難航した。1967年にハヨピラ完成後、松村の発病もあり、CBAは活力を失い、1973年解散する。会員は2000人を超えたとも言われている。

 1963年12月20日、CBAでオキクルミ計画が正式に発動。平取町のオキクルミカムイ像の義経神社の移転にアイヌの人たちが反対している話を地元のエカシから「ハヨピラの聖地はmかつてオキクルミカムイ降臨の地としてアイヌのものだから、自分たちで土地を購入し、CBAの工事に提供するようにしたい」と申し出があった。しかし、土地の購入ははかどらず、CBAが直接購入交渉に当たるが、昭和6年の図面しかなく、測量のやり直し、ハヨピラ聖地が未登記のまま、神社の所有地などもあり土地の取得に難儀した。

 高さ8メートルの鉄筋コンクリート製オリベスクの建造(オキクルミ記念塔)、太陽円盤マーク花壇は1100人動員し350万円の巨費を投じて完成した。1964年6月24日アイヌコタンの人々も招待され、ハヨピラセレモニーが挙行された。この日の空には巨大母船が祝福するのが如く相次いで出現し、人々の度肝を奪った。
 式典後8月1日には、第二次オキクルミ計画が発動され、オキクルミカムイがかつて電光の如く地上に降下する形の光を表す稲妻パネルと、光を象徴する三角池と古代図形のワラビ手紋を表現した噴水、円盤そのものを表現した直径15mの太陽円盤花壇を8月中に完成
 第三次オキクルミ計画としてオリベスク8記念塔)の下に高さ4.5m、幅7mの。アイヌの人が上空に円盤を迎えそのそばに熊、スズランなどを配置したモザイク板を設置した。

 1965年6月24日、ハヨピラ大壁画完成記念大会を挙行した。この日はセレモニーが始まる前から母船が現れはじめ、次第に空には母船や円盤が現れ、多くの人たちが目撃した。
 1965年8月に、「プロジェクト66」という太陽のピラミッド建造の最終計画を発表した。極寒の冬も会員の手で工事が行われ、6月には完成。ピラミッドの他に、航空記念碑、土偶も設置された。
 1966年6月24日、東京から千歳までのチャーター機で来道した各国大使や職員等の来賓は、千歳空港からそれぞれの国旗をなびかせたハイヤー23台が道警のパトカー3台の護衛でハヨピラに到着した。来賓の前でセレモニーが行われ、ISS委員用のトレンチ伯爵の手に絵よりテープが切られ、くす玉が割られた。

 ハヨピラ完成後、宇宙文化遺産の日本唯一の公園と称して、この上空には円盤が来ることなどの話題から、謎に包まれた観光施設となった。CBA会員らが貸切バスを連ねて訪れ、UFOを観察や瞑想にふけたりしながら頻繁に出入りし、チセやアイヌ民芸品を売る店などもでる賑わいを見せていた。
 1970年6月24日、オキクルミカムイ祭1200年式典が行われ、全国から100人が参集した。これがハヨピラで行われた最後の式典となった

 数年の間賑わいを見せていたが、UFOブームが過ぎ去ると人の姿が見られなくなった。ハヨピラはの管理責任は、CBAから1970年にハヨピラ管理委員会に移って、会員の代表が交代しながら管理を行っていたが、1975年、UFOの観測研究の機能を終えたとして、管理人もいなくなってしまい閉鎖され、荒れ放題となっていく。1973年6月、会員だった大学生が、ハヨピラを訪問した時に管理棟に放火、それ以降ハヨピラはさらに荒廃していく。

 平取町は、放火事件後CBAに対しハヨピラの管理運営に対してどう対処されているのか公式の文書を出したが、管理責任は1970年よりハヨピラ管理員会にあり、直接関係を持たないので返事できないと回答があった。1972年CBA?ハヨピラ管理員会?、土地所有者であるCBA会員に土地の対処についての文書を送ったが回答がなかった。この後も再三唯一の連絡先である私書箱に文書を送ったが、CBAとの連絡が取れなくなり、荒れ放題のハヨピラがある町として大変困った状態になった。

 CBAと連絡が取れなくなって10年以上たった平成2年11月、ハヨピラ関係者から平取町に突如文書が届いた。内容は、長い間閉鎖を余儀なくされっ危険度を増すばかりで廃墟と化したことを詫び、土地を町に寄付の申し入れをするものであった。翌1991年1月に登記を行い町有地となった。

 平取町は、ハヨピラと義経神社一帯を整備する計画を立て、既存の建造物をそのままとし、壁画のライトアップ、あたら曽於UFOのモニュメント、神殿部を利用した展望台、ケーブルカー、遊歩館(UFO伝説、義経伝説の関わり背景を解説した展示室)、日時計オキクルミ像の修復、モニュメント、案内板、駐車場、義経神社とハヨピラを結ぶ義経遊歩道などを整備する案を発表した。ただし、実際は大規模な工事は行わず、崩れてきた壁の撤去、雑木伐採、神殿やゲート、飛行機やUFOのコンクリート構造物の塗装などを行った。そしてきれいに整備され、1994年(平成6年)6月22日、ハヨピラ自然公園はとして開園した。

 2003年8月台風10号の影響で今まで経験したことのないような豪雨で、一部崩落恐れがあるとして閉園となり、それ以降開園することはない。

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