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ギャラリー

北海道の産業遺産?遺跡? 

      
 

積丹半島西側の袋澗 その2 泊村2お知らせ


ニシン漁が盛んだったころ積丹半島には、
袋澗と呼ばれるたくさん獲れたニシンを網に入れて生かしたまま保管しておくため、網元が海岸に石を積んだ堤で囲った、プールのような形態のものが多々造られた。

その2は、その1に比べ、大型の遺構となっている。

以下では、本に記載されている呼称(S-〇〇号)を引き継いだ。以下の報告は泊から北上して神恵内までの順とするが、本では、余市からとなっている。


S-79、80号 泊村

 

田中ノ袋澗と呼ばれている。
歩いて近くまで行ってみたかったが、探索時間が取れず断念。 入江の現在小漁港になっているところの袋澗他、その背景の建物の位置関係がわかる数少ない遺構である。
袋澗の後ろには、当時の石組みの倉庫が残る。倉庫の奥の青い屋根の建物が建つ場所には、かつて鰊御殿があった。


その鰊御殿は、昭和33年北海道炭鉱汽船株式会社が創立70周年記念として小樽市に移築復元して現在に残る。
2011年6月 2012年5月撮影



国道から見える場所にレンガ倉庫の遺構が残るが、どの袋澗に対しての物件なのかはわからなかった。
S-78?
2004年10月撮影

S-77、76a、76b号 泊村 照岸
 
「後志十景 カブトライン」の石碑がある展望スペースから見える袋澗群。
人工的に岩を削った切澗がよく俯瞰できる場所である。

77:岩陰に78があるが写真でははっきりしない。2004年10月撮影
76b:岩を掘り込んだ形が特徴的。中央右側の掘込水路の先端部は石組みかコンクリートで封鎖されている。2011年6月撮影


76a:掘り込み右岸左岸共に、石積みが残る。右岸奥は75の袋澗、所有者は異なっている。
2011年6月撮影

S-75、74号 泊村 照岸

写真手前が75、奥が76
75、74は同じ所有者だが、昭和3年の段階で、借金の抵当として北海道拓殖銀行の手に渡っていた。 ひとつ前の写真の角度を変えたものが上写真。

 
75と74の間には、建物が建っていた?石組みの遺構が残る。
国道、旧国道から74、75を俯瞰すると、建物の基礎となる遺構も浜に点在し、かなり大きな網元であったことは想像できる。
後に、港湾施設にならなかったこともあり、跡は朽ちて行くままだがこれだけの大型の遺構が、一切手を加えられていないのはここだけではないだろうか?
2004年10月撮影

 
浜の手前にも建物の石組みが残る。 中央の水が75の袋澗、 左側の直線に見える石の列ところがひとつ前写真の石の列 。75から74までつながっていたであろう一連の鰊施設 かなり大きな施設であったことが窺える。
2011年6月撮影

S-72、73  泊村 盃
 
新しい兜トンネルを出て、コンクリートの防波堤?の横にある袋澗が72。わざわざう防波堤にしないで袋澗を残している?。 2004年(手前写真)と2011年を比べると、風化は進んでいることがわかる。


73は、その防波堤の反対側にある。こちらは天然岩を掘り下げている。写真の棒は、「積丹半島の袋澗」の写真にもあり、おそらく新しくはする必要性もなさそうなので、ずっと残っているものなのであろう。
74(写真なし)は、空中写真を見ると73の隣に天然岩をくりぬいたもの。2011年6月撮影

S-68、67 泊村 盃
 
68は、「積丹半島の袋澗」の写真では、まだ手前のコンクリートの船着場を建設中。
2011年6月撮影


67は盃漁港手前には、堤の跡が散在する。写真で見るとわかりにくいか?。 66は未訪問だが、この盃漁港の反対側に遺構が残っている模様。 2004年10月撮影

海岸線道路の改良

泊村内の海岸線の道は難所が多く、岩内との往復は明治40年ころでも海上交通が大きな役割となっていた。明治36年に武井忠兵衛が茶津に61間の隧道を開削し、険路の不便を解いた。

大正2年に難渋を極めたカブト岬付近の道路開削工事が始まり、地元の漁業家(袋澗の持主たち) 武井忠吉、田中福松、金沢長太郎、吉田常吉らが、大小10のトンネル開削工事費を寄付、大正4年には馬車交通路が確保された。
後道費によって、盃〜神恵内館に新道路工事が進められ、大正9年に完成。神恵内山道3里の難路が除かれた。
(角川日本地名大辞典より)


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