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ギャラリー

北海道の産業遺産?遺跡? 

      
 

美瑛演習場跡お知らせ


 2001年5月、美瑛の福富から三愛に抜ける尾根の道を走ると、お碗形の小山があって、通ったときも気にはなってよくみると。小山に細い小窓が二つあった。これはもしかして…トーチカ?何故、こんなところに…。いったい何の目的で…。謎…。

 

 謎を解明しなくては…。 それで自分なりに考えたのだけれども、もしこれがトーチカだとすれば、きっと昔トーチカはきっとあの辺りにほかにもいくつかあったと思われる。あれ1つだけあったってことはないような気がする。探せばあるのかも…。しかし何故?ここも戦場になると思っていたのか?または訓練にでも使ったのか?でも自衛隊は隣町に駐屯しているし…。

 

 図書館に行って調べるか〜、ってことで札幌中央図書館へ。
美瑛町史 89、90ページ要約  明治40年  美瑛演習場が原野1055町6反4畝2歩に設定せられることになった。土地は丘陵四辺につらなり、小流その間貫きて演習場として好適なることその比をみずといわれていた。主として歩、砲兵の戦闘射撃を目的とするもので、歩兵一箇聨隊を収容するに足りる廠舎を目的とするもので、初代管理者は時の戸長予備陸軍三等主計水涼が嘱託せられた。廠舎の設備内容は、兵舎12、浴室3、弾楽庫1、聨隊大隊本部2、診断所1、主管官舎1、炊事場3、酒保1、標的庫1、厩舎1、営丘所1、等であった。
 110ページ要約  地質、気象の項の丘陵地(記載は昭和32年より前である) 三笠山より南東、上富良野の境界線に至る地帯三角形の丘陵地、美馬牛川および鉄道沿いに流れる無名川流域は永年演習地であり、例年のように山を焼くため被覆物を失い、春南方よりの季節風や、雨水によって、特に南面の傾斜地は前剥せられて耕作に堪えぬほどになったところであるが、耕作地として開拓が進められている。

 角川日本地名大辞典 1北海道 下巻  757ページに旧陸軍旭川第七師団演習地(美瑛原野地区6,820ha)という記載があった。

当時インターネットで 美瑛、第七師団の二つのキーワードで検索したところ、「厚岸要港部/北の足跡 #2 愛田めぐみ」のサイトに下記のようなことが掲載されていた。
抜粋  美瑛には演習場があり、大正15年8月には「化学弾効力試験」として化学兵器の実験が行なわれたと記録にある。  また、昭和16年7月、対ソ連戦を考慮した防空力強化が行なわれる事となり、美瑛に第1〜第4防空監視隊が美瑛で編成され、防空教育の後に樺太と道南に配置されている。
終戦時、美瑛には要塞建築勤務第4中隊(京都)が所在、旭川周辺の防禦を担当する旭川師管と道東の防禦を担当する第七師団の担任境界線である狩勝峠に陣地を構築していた。  

  

 明治40年から第二次世界大戦が終わるまで(いつ演習場が農地へと生まれ変わったか未調査)は、少なくともあの丘陵地で戦争に備えていろいろと訓練していたということのようだ。
 トーチカとして軍事訓練を行ったのかなと2001年当時はそう考えていたが、実際のところは監的壕としてここから実弾射撃を行い、着弾を観測するための目的か、他の場所から発射された砲弾の命中率や性能を観察する目的で使用されていたようだ。見晴らしの良い場所に建てられているのもそのためであろう。
 他に同様の施設もないので、実弾発射はここだけで行われていたのかな?。他にも丘陵地を探せば訓練設備ならびに演習場であった証があるのかもしれない。

 
美馬牛小学校の裏側には、陸軍の水道施設とされている跡が残る。
 

 美馬牛駅のすぐ近くには復元された旧陸軍倉庫である。倉庫の左側には説明書きがあって、それには、主な兵舎などは美瑛市街にあったけれども、美馬牛駅裏一帯にも昭和21年頃兵舎、厩舎が並んでいて、この倉庫を保存するのに移築復元したものだってことが書かれている。
 

「美瑛のトーチカ? 」として2001年10月1日に公開した記事を修正しました。2021年11月26日

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