下川鉱山お知らせ上川支庁北部の静かな山間部、町の面積の90%が森林で占められた下川町。下川鉱山は、昭和8年(1933年)地元の浅沼関市という人がパンケ落合沢で転石を発見したことに端を発している。 昭和16年、三菱鉱業が20名の従業員で拡鉱し、第二次世界大戦中は銅の需要が増え、他鉱山から行員を動員して坑内員を補充したが戦局悪化で休山となった。 終戦後は朝鮮戦争による世界の金属市場の好転により、下川駅まで索道を設置し(のちにトラック輸送に変わるが)、施設の充実化が図られ、銅精錬、硫化鉄精錬など月産8万トンであった。 鉱山街は下川市街をしのぐ繁栄をしめした。昭和30年から40年にかけて経営の合理化、増産を図り、昭和42年最盛期には705人の人員を抱え、新下川と呼ばれた社宅街に628世帯、2485人が住んでいた。 しかしこの時期を境に、銅貿易の自由化による銅価低迷、公害対策、深部採鉱によるコストアップで経営が悪化していく。そして昭和51年2月に休山?日本で3位だった銅鉱山は昭和57年に閉山した。 最初の訪問は平成12年(2000年)の夏だった。このときは見た目は現役の鉱山施設のようだったが、2年後に再訪問してみると特徴のある建物は撤去されていた。 再訪した際、僅かに残る施設を巡ってみた。
下川市街を東西に走る国道239号、名寄方向から走ってきて、市街が終わる辺りに下川鉱山への道標が今もある。 道道354号に出て、しばらく走り山が近づくと途中何かに使われていた錆びた鉄橋と新しそうな鉄橋(写真の下の青いほう)があり、その先は土盛された横を道路は進む。
土盛が終わるところに道があるので上がって見ると荒地が広がっていた。沈殿池の跡らしいがはっきりはしなかった。 そして進むと鉱山施設が広がり(立入り禁止)、TOPの建物が現れるはずだったが撤去されていた。この周辺には沈殿施設?の跡と雑草に隠れて他の入口跡がある。
道路は坑道へ延びるトロッコ軌道の下をくぐると新下川の鉱山住宅の集落跡があるが、残されているものは菱光小学校と幼稚園の廃墟とそれに付随した新下川のメインストリートの寂しく色の褪せた横断歩道、アスファルトの歩道のみである(三菱系の鉱山だったためか菱光と名づけられたのだろうか?)。
小学校はかなり大きく、立て替えて僅か2年で廃校となり、町としては壊したいのだが予算が無いのでそのままにしているとのことである。小学校の周りに広がる雑草の生茂った平地を眺めると、ここに2400人近く住んでいたとは思えない静寂がある。 道路の両側は雑草が生茂るのみで建物は残っていない。この道路の突き当たりで舗装は切れ道も無くなる。小学校は町で管理されているので、14年の訪問(写真は12年に訪問したもの)時は雑草が刈られていた。
そして先ほどくぐった屋根のついたトロッコ軌道跡の周囲を探索してみる。軌道の小学校側にはぬかるんでいる広い空地が存在し、そこから近づいてみるがそばに行けるだけである。山の中に軌道は延びており、また軌道内への出入口もあるが雑草の中に閉鎖されていた。この施設も撤去されるのだろうか?
12年訪問時、下川町ふるさと交流館というところで、いろいろ鉱山に関する本を見ていたら館長?に閉山3,4年前のビデオを見せてもらったことを付け加えておく。 忘れられた町6 下川鉱山 として2003年2月11日に公開した。 そのときの追記の追記: このページを作るに当たって下川町のHPを見たが、役場のWeb素人が力をかけず作っているような寂しさがあり、内容が乏しくガッカリしたことを加えておく。自分の町の大きさ、人口くらいは表記したほうが良いと思うし、林業や過去の産業であった下川鉱山についても触れておけば下川町に興味が湧くと思うのに…。下川町をアピールするには役場の役人たちはインターネットなどしないのでわからない領域だと思うが、Web製作にお金をかけても良いと思う。まあ下川町史も読みづらかったし、しかたがないのかな〜。 2003年ってインターネット環境ではまだそんな時代だったよね。 |
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