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ギャラリー

北海道の産業遺産?遺跡? 

      
 

上喜茂別鉱山(日鉄喜茂別鉱山)専用線お知らせ


地形図を集めてそれを見て、ニヤリとするのが楽しい。昭和中期の物は今とは異なるものが多く、楽しいのだ。 そんな地形図の喜茂別辺りの旧図を見ていると、 ん?、そんなところに線路?? 喜茂別の駅からなにやら知らない鉄道線が東に延びているのではありませんか。
国鉄胆振線って喜茂別から分岐する線路ってありましたっけ?

京極からは脇方鉱山までの線路があったことは知っていたけど、これってなんでしょうね?

ちなみに地形図は、地理調査所 昭和31年11月発行、5万分の1、留寿都である。

この続きは…と、同時に手に入れたとなりの地形図、昭和22年1月発行の荘渓珠(双葉)を見ると、残念ながらこちらには古くてなにも表記されていなかった。 戦後の地理調査所の同時期のものであれば線路跡、そして線路の先にあるものがしっかり記載されているかもしれませんが…(2022年確認すると、地図・空中写真閲覧サービスで鮮明じゃない地形図の図歴をみると表記されている)。

喜茂別側の中山峠の手前に国鉄胆振線ではない線路跡があったとは知らなかったよ。 これに気づいたのが2007年の夏。 これはかつて喜茂別町にあった上喜茂別鉱山へ続く専用線の表記なのだけど、表記は国有鉄道で地形図に反映されてしまった。
 
まずその上喜茂別鉱山について

明治37年(1904年)に地元民によって発見され、40年に試掘願を設定、大正5年(1916年)に有望な鉱床を発見し、大刀川鉱山と称したが、大きな開発は行われなかった。
昭和12年(1937年)に、日本製鉄株式会社が買収して13年から褐鉄鉱の本格的な採掘がおこなわれた。 日中戦争で採鉱が軍の至上命令であったからである。翌14年に日鉄鉱業株式会社が設立され経営が移行した。

喜茂別駅から、6.6キロの専用軌道が敷設され昭和15年から運輸開始され、輸送の強化を図ったが、砒素の含有が多いため17年11月に休山となる。昭和17年ころまでに採掘された鉱石は約30万トンであった。 しかし昭和19年3月、戦時需要が増したため、再び操業したが、戦後の21年3月には再度休山した。 その後鉱石の中の砒素を除く研究が行われ、24年に焼結することで砒素を除くことに成功し、26年から焼結工場を建設操業したが、焼結を行うことがコスト高となり赤字経営となったため、28年8月に再度休山となった。 そういう歴史の鉱山なのだけど、町史を見たけどあまり記載はなかった。

上記の地形図は31年発行だが、測量年は昭和28年なので線路が反映されているのであろう。

2007年10月、地形図にある昭和3年開業して昭和61年に廃止された国鉄胆振線喜茂別駅跡から線路跡を追ってみた。

(1)
(1)国鉄喜茂別駅跡
喜茂別駅跡は市街地のはずれである(1)。
喜茂別駅跡は現在公園として整備されており、案内板が出ている。喜茂別駅は元々国有化される前身の胆振縦貫鉄道時代は西喜茂別駅として開業したが後に喜茂別駅と改名された。

胆振縦貫鉄道が出来る前の胆振鉄道の終点喜茂別駅はここから市街地に進んだところにある(2)。

(2)(3)
(2)胆振鉄道の喜茂別駅跡
(3)駅前から道が放射状に延びる
元の駅であった場所は、現在も広い駅前スペースであったであろうやたらとでかい安全地帯と、そこから放射状に延びる道路とが、駅前の雰囲気が後に移った喜茂別駅跡よりもある(3)。
広場の横にはAコープがあるが、かつて駅前に農協の施設があったのであろうか?

ここから上喜茂別鉱山専用線が延びていた。

(4)(5)
(4、5) 線路跡と思われる道路

専用線跡は喜茂別の市街地は道路となっていると思われる(4、5)。住宅が無くなると、線路跡は、畑となっていてそのあとは暫くわからない。

国道のオービスを過ぎたあたりにある(6)民家に並ぶ木々は過去の空中写真を見ると、ここに線路が通っていた境の感じである(7)。

(6)(7)
(6、7)オービスの辺り、木々のラインが線路跡か?


(8)(9)
(8、9)スクールゾーンと書かれた看板

国道に左側の山が寄ってきた辺りで、道はカーブを切って中山峠へと続く辺りには、鉱山職員の子どもも通っていたであろう喜茂別町立栄小学校(昭和60年閉校)跡があり、国道には学校を示す「スクールゾーン」と書かれた錆錆の古い標識が残っていた(8、9)。

(10)(11)
(10)三宅伊勢松頌徳碑と喜茂別町立栄小学校閉校記念碑
(11)線路が国道と交差していた場所

三宅伊勢松は上喜茂別駅逓所、教授場用地を寄付したので、大正7年に上喜茂別尋常小学校校庭に碑が建てられた(10)。

この学校跡を過ぎたところで、専用線は道路と交差していた(11)。国道の山側は木々の茂みになってどのようになっているか分からないが、国道を渡った先に民家があり、その横には築堤が残っている(12、13)。

(12)(13)
(12)民家の駐車場の裏に築堤
(13)築堤跡、学校跡からもわかる

築堤の先には喜茂別川があり、そこには、橋脚跡が川面の真ん中に残っていた(13、14)。 築堤と、橋脚跡が、かろうじて鉄道があったと分かる遺構である。 川の先は茂みになっており、時間の関係でこの先の探索はしなかったが、おそらく鉱山の施設跡が残っていると思われる。

(14)(15)
(14)築堤の先の橋脚跡
(15)喜茂別川に残る橋脚跡

築堤の先には喜茂別川があり、そこには、橋脚跡が川面の真ん中に残っていた(14、15)。
築堤と、橋脚跡が、かろうじて鉄道があったと分かる遺構である。

(16)(17)
(16)道路横に鉄道跡が残っていた。
(17)戦後の空中写真を見るとこの先に鉱山町跡があった。

川の先は茂みになっており、時間の関係でこの先の探索はしなかったが、築堤の先に貨車に鉱石を積むホッパーが残っている模様 (16、17)。戦後すぐの空中写真では、採掘場からホッパー付近までも軌道があるように見える。


(18)
(18)喜茂別川そばには福島団体入植二十周年記念碑が立っていた。

2007年10月訪問。

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