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ギャラリー

北海道の産業遺産?遺跡? 

      
 

石狩油田 八の沢鉱業所お知らせ

石狩市八幡町五の沢から、五の沢林道を入って当別町との境界近くに、今回紹介する石狩油田「八の沢鉱業所」はあった。 2007年10月訪問

八の沢(八澤)付近に油井マークが多数ある。また学校マークあり
 
 石狩油田の開発は、安政5年(1858年)に幕府箱館奉行所石狩詰役所の荒井金助が、厚田望来の海辺のあたりに石油が浸透しているの見て、調査したのが始まりである。
 明治12年に島倉という人物が春別(当時は俊別)で試堀するも成果が無く、明治22年に北海道鉱山会社に鉱区を譲り、さらに明治36年には、インターナショナルオイルコンパニーが大規模に開発し、春別や五の沢で鉱脈を発見、本格的に掘削するために機械井を設けた。
 五の沢では、900キロリットルの貯蔵タンク2基、360キロリットルの貯蔵タンク3基を設置、来札にある貯蔵油槽まで鉄管で送油した。

  明治44年(1911年)、インターナショナルオイルコンパニーは日本石油に資産を譲渡、日本石油は、石狩に鉱場を設けて事業を引き継いだ。この年、手稲軽川に北海道製油所を設立、管の直径は約5センチの鉄管をさらに延長して、来札から軽川まで送った。採掘所から製油所まで約30キロにもなった。 製油所では、原油からガソリン、灯油、機械油、重油などを生産し、北海道、樺太に供給した。

(1)(2)
(1)八の沢の石狩油田事務所、油井材料運搬用のガソリンカー、各種口径の油井鋼管等
(2)製油所

(1)〜(3)は昭和5年発刊 日本地理大系 第10巻 北海道・樺太編 からの写真で、油田が一番活況があったころのものである。

(3)
(3)峻別における20余の油井

その後事業の拡大をはかり、昭和4年度は年産1,271キロリットル生産。しかしその後は下降線で昭和10年にはおよそ半分の量しか産出できなくなった。

戦争が始まり、昭和16年、政府出資の国策会社、帝国石油に移管され、戦時体制化で産油は続けられる。 戦後、昭和30年には産油量は厚田油田の産出量も合わせて、1800キロリットルとなり最盛期の5分の1となってしまった。

昭和34年、帝国石油から北宝石油鉱業に受け継がれたが、翌35年石油と天然ガスの採掘は中止され、石狩油田58年の歴史は終わった。

(4)(5)

五の沢林道を走っていくと、現在無人の地の山奥(4)に、上記地形図の学校マーク跡のところに油田のあったことを示す石碑(現在の地形図に記載されている)(5)、校門跡(6)、昭和23年頃の見取図(7)がある。

(6)(7)

見取図を見て、北電の発電所があった地点が(8)、写真には写っていないが現在も小さい送電線が通っている。藪の中進めば遺構が残っているかもしれませんが…どうでしょう?。

(8)(9)

石碑のあった地点からさらに道を進むと、伊夜日子神社の碑がある(9)。この付近はとても石油の匂いが強く、(10)のような火気厳禁といった注意書きがある。他の地点でも何箇所か見かけた。

(10)

他サイトを見ると、石油が湧いているような場所もあるようだが、残念ながらその場所は見つけることが出来なかった。

石狩市には、他にも厚田油田、茨戸油田が存在していた。

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