尺別炭鉱お知らせ北海道釧路支庁管内の最西端、人口約3,300人の音別町(2002年現在)。2005年に釧路町と合併したが、地区の人口は2016年では2000人を切った。ちなみに昭和31年には人口が1万人を上回っていた。これは、尺別炭鉱や発展によってもたらされていた。尺別炭鉱は、大正7年に開鉱し海岸部への輸送は馬の背による運炭方法であった。同9年に北日本鉱業が運炭軌道を作り、このとき根室本線に尺別駅(信号所)が営業し始めた。昭和3年、三菱が買収して三菱雄別砿業所の支坑となる。昭和19年には戦争のため政府非常増産緊急措置がとられ休坑(坑員は九州の三菱系炭鉱へ動員された)し、終戦後昭和21年に再開、同25年浦幌炭鉱を吸収し操業を続けるが、エネルギー革命の影響を受けて次々と閉山する炭鉱の一つとして昭和44年2月27日閉山する(親会社の雄別炭鉱も翌日閉山)。
2002年8月中旬の昼下がり、音別町の尺別駅に到着。全長約11キロの雄別炭鉱尺別鉄道がここから接続していた。尺別鉄道は閉山に伴って昭和45年4月16日に廃止された。 国道からはやや離れた場所にある駅は、駅前には廃墟が点在し空地が目立つ。 駅構内には、炭鉱鉄道があったであろうスペースが広がっており、また駅のホームは立派で過去の繁栄を物語っている。閉山と共にこの駅も寂れて利用者が激減し、昭和46年10月2日で無人駅となり、写真を撮った跨線橋がこのときできた。
尺別駅では、浦幌炭鉱に子供の頃住んでいて昔を偲んでバイクで訪問していた音更町在住の人と出会う(浦幌鉱は昭和29年に廃坑になったので年齢は60代?でバイク旅)。 話をしていると、小学生のときに浦幌鉱からは尺別鉱まで尺浦通洞を通り、汽車に乗って尺別駅に出たとのことで、このとき生まれて初めて海を見て感動した話をしてくれた。 駅を後にし、ここから尺別炭鉱までは、道道361号尺別尺別停車場線を走っていく。途中牧草地が広がり、道路と平行して線路跡が続いていく。
国道38号線から約7キロくらい走ると、コンクリートの立派な跨道橋跡が現れる。ここから100mくらい行ったところにかつて新尺別駅があり、ここに大集落があった。
丘の上の牧草地の中に2棟佇んでいる廃アパート。 1つは白く、もう1つはコンクリートを一層塗った壁が剥がれて中のブロックが剥き出しもので、何故この建物だけ残っているのかが不思議である。というのも現在の牧草地からではその痕跡が全く判らないが、本で古い地図を見ると他にも何軒も炭鉱住宅が並んでいたからである。
道道からここまで伸びる道も、住宅があったとは思えないほどの悪路となっていた。 道道に戻りここから山奥に入っていく。 今回の最終目的は尺別炭山駅跡を見ることである。
大集落のあった新尺別地区を後にして、さらに山奥に進んでいく。整備された道道には何本か橋が架かり、横には鉄道の橋脚が残っている。最後の橋を渡ると道は突然無くなる。 行き止まりではないが、「えっ?、こんな道入っていかなきゃいけないの?」っていうような轍が酷く、雑草の生茂った道になってしまう。ここを入っていかなければ、尺別炭山駅や炭鉱の遺構には到達出来ない(他のルートもある模様)、ここで車を止めて歩いていくにはここからどのくらいの距離があるのかも判らないし、獣がでそうだし、いけるところまで行ってみようと車を進入させる。 今だかつて走ったことのない悪路で、車のお腹すり、木々の枝がフロントガラスに当たり、かなり後悔しながら、たいした距離でもないけど長く感じた200〜300mくらい進んだところで、煉瓦の柱らしきものが見えた。ここから先はさらに道が険しく、これ以上車で進むのは厳しいと判断し、車を自分でもよくこんなところで方向転換できたなと感心するような場所で折り返す。こんな場所でスタックでもしたら、何時発見されるか判らないであろう。
この悪路の先を進むと、駅側に行けるらしくホッパーや尺浦通洞の入口などがあるが、1人では生命の危険を感じる。駅跡は見れなかったか?。諦めて戻ろうと20mくらい引き返して、ふと右を見ると川向こうに朽ち果てた駅舎跡が草木の中に眠っていた。炭鉱施設跡には行けなかったがもうそれで満足だった。 「忘れられた町5尺別炭鉱」として、2002年11月17日に公開したものを修正した。 |
roadsidehokkaido.htmlへのリンク