知床に眠る 岩尾別(イワオベツ・イワウベツ)の開拓集落 お知らせ2005年7月17日に知床は世界自然遺産に登録された。その前、2001年、2002年に知床五湖周辺に人の営みがあった痕跡についてのレポートを 2002年8月に忘れられた町 斜里町岩尾別(川東地区) として公開。 そして2022年写真追加改訂を行った。 日本の最後の秘境とされる道東知床、厳しい自然条件も手伝って人も住まない地域でもある。この知床の斜里町内には知床五湖と呼ばれる秘境かつ絶景が広がる地がある。 この地にも過去に開拓があった。 人が住んでいたという事を知ったのは、01年秋に知床五湖に行く途中に廃屋が何件かあったこと、知床一湖にかつてココに人が住んでいたことが案内板に書かれていたことで知り驚いた。
2001年にあった案内版の内容。 イワウベツ開拓と知床100平方メートル運動 一湖の対岸は、開けたササ原になっていますが、これは、昭和40年頃まで行われていた放牧の跡地です。知床五湖のあるイワウベツ台地一帯では、大正、昭和と2回にわたって開拓が試みられましたが、いずれも失敗に終り、入植した農家は全戸離農しました。この開拓跡地を再び買い戻し、自然を復元するための運動が今、全国の人々の協力によって進められています。 環境庁・北海道 イワウベツはアイヌ語でイワウペツで硫黄川と訳されており、あて字で岩尾別と記された。岩尾別川の東側なので川東地区(川東という説明は特に記載するものは参照できず、こちらの推定ではあるが)と呼ばれた。
明治43年岩尾別原野に殖民区画がなされ、大正3年に4戸、7年に集団入植が60戸あった。 しかし蝗害があり、すぐ離農が始まり大正14年移民が退去(3戸だけ残ったがのち全離農)し、開拓した畑は荒廃した。 昭和12年になって再び許可移民者が再び入植した。緊急国内開拓(戦後開拓政策)で昭和20-25年に34戸、26-30年に31戸入植し、昭和29年には最盛期65戸となったが、昭和40年には全戸数は27に減少した。 この間に国の投資した基盤事業費は当時の金額で1億3600万円、山林、公共事業に2億円以上とかなりのお金を費やした。 馬車が通れるよう農道の開削が行われ、また昭和30年地域振興対策として澱粉工場が木造ブロック造で完成するも、中斜里に大型澱粉工場が出来るに当たって、33年までに廃業してしまう。
農地として不適当であり立地条件の劣悪から生活環境は悪かった。厳しい自然条件とたびたびの冷害で営農は延びなかった。昭和30年代、開墾地を国の基準に達するようにするため農地開発を爆薬を用いた抜根、レーキドーザーにより多くの岩の除去を行うと、地面が下がり、知床の表層の肥沃な土がなくなり、酸性土が露出。馬による開墾時代では育った馬鈴薯も育たなくなり、酸性土を中和する石灰を大量に投入しなくてはならない土地となってしまった。
昭和37年知床林道着工、38年知床横断道路着工、共同牧場開設、39年知床国立公園に指定された。 昭和40年斜里町が離農を促し、昭和41年に全戸が移住を決断し、それに伴い42年に岩尾別小学校も廃校となった。 昭和52年全戸離農した開拓跡地を不動産業者の乱開発から守るため、1区画100uを1口とし、全国に呼びかけ買戻して再び緑の原野に復元しよういう運動「知床100平方メートル運動」が始まった。
知床五湖からやや離れた、現在自然センターがある辺りも集団移住した地域である。岩尾別川の西側、川西地区
集団移住に関して良い思いをした人はそんなにいなかったのでは? もし、このまま定住していたら、もし集団移住したが、土地が不動産業者によって購入されていたら、違う知床の姿があったのであろう。無秩序に開発が進んでいたらバブル崩壊後に各観光地見られる廃墟化された大型ホテルや観光施設が並ばなかったことが救いなのかもしれない。 町史等を元に書いたが、知床開拓に関して良書がある。 参考図書: 栂嶺レイ 知床開拓スピリット 菊池慶一 もうひとつの知床 戦後開拓ものがたり |
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