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ギャラリー

北海道の産業遺産?遺跡? > 函館要塞(津軽要塞)

      
 

要塞地帯法下の函館山  要塞地帯法により函館山は秘匿にお知らせ


 函館観光の目玉、函館山からの夜景、麓からロープウェイに乗ってあっという間に334mの山頂に到着し、降りて眼下に広がる景色は、夜景だけでなく、昼間の景色でも素晴らしいものがる。 世界三大夜景、そのうちの一つとされる函館山の夜景。何時の頃からこのように言われるようになったのかというと、これは戦後に言われるようになった。
  函館山は1898(明治31)年に函館要塞の竣工により、要塞の周囲の測量、模写、撮影、筆記は要塞司令官の許可を受けることとなり、明治32年に施行された要塞地帯法によって、一般人の入山は禁止、撮影、写生をすることさえ厳しく禁じられ、それが敗戦の昭和20年まで続いたのである。 昭和21年にようやく市民に一般開放されるまでは、入山は禁止されていた。 昭和28年に夜景目当ての観光バスを運行され、昭和33年にロープウェイの会社が運営を始め観光地化された。
 
  
 大正14年 最新調査 北海道精図 小島大盛堂 
こちらの地図では、飾りの模様で山を分断、函館山は空白、
市街地の広がり、立待岬を改描偽装

函館要塞司令官許可済 大正二年九月十九日 と表記


昭和12年?函館市地図 
要塞のある函館山が空白
昭和十一年八月十四日津軽要塞司令部許可済 と表記


 要塞地帯法は、大正4年、昭和15年と改正され、区域も最大15キロと拡大され、撮影、模写等の罰則も強化された。他に昭和12年、軍機保護法の大改定で、軍事秘密保護の強化で特に函館市一円、津軽海峡に面した村々は要塞司令官の特別許可の他に、陸海軍大臣の許可証も要することになった。
 参謀本部陸地測量部で発行された地形図も一般的に出回った図は、要塞地帯は白抜き、地形図自体も存在しないことになっていた。


第二次世界大戦時中 大沼公園、臼尻の地形図。
要塞地帯である津軽海峡の海岸線が秘匿となって記載されていない。



大沼の空白部分と地形図の境に 道路は「至 函館」鉄道は「至 はこだて」
と表記されている。

 太平洋戦争で戦況が厳しくなった昭和18年8月より軍事施設だけではなく、地形判断資料となる広範囲の撮影や市街の全貌を表わすもの、電車道や道路写真、20メートル以上の高所からの撮影や海岸および港湾付近の殆どの撮影が制限対象となり、要塞地帯内の写真撮影は、屋内外を問わず総て許可を必要とし、個人撮影は原則として許可しなかった。

 
大沼公園遊覧 案内絵図
(函館市湯の川根崎 大沼公園案内絵図)  金子常光 画 
大正十四年発行

函館山は雲で隠されているが、絵のクオリティー考えると不自然なのは明白。
函館要塞司令部許可


 函館市鳥瞰図 函館市役所
吉田初三郎 画  昭和11年発行

函館山が描かれているが、稜線が正しくなく、山名が書かれていない。
昭和十一年七月十二日 津軽要塞司令部検閲済

ということで、要塞が機能していた頃の函館に関わる写真(絵葉書や本)や、地図には「要塞司令官部許可済」と印刷されている。 写真では、函館山が写らないように撮影したものや、写りこんでいるものに関しては、意図的に山を雲が被っているように白くぼかして山の存在を消したり、あるいは無いことにている。 地図に関しても、函館市の地図には山は記載されていない。
まだ写真が存在していた時代は良いが、戦争末期の写真は殆ど存在しないようだ。

 
現在の函館市地域交流まちづくりセンター付近
後ろに函館山の稜線が見えるはずだが消されている。
(写真はおそらく大正時代)




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