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ギャラリー

北海道の産業遺産?遺跡? 

      
 

大きな街があった羽幌炭砿(羽幌炭鉱) イントロ編お知らせ

 僕が高校時代に夕張のPRのために「バリバリ夕張」とうフレーズがあったが、羽幌出身みのや雅彦のアタックヤングというラジオ番組の中の葉書ネタで「ボロボロ羽幌」というのがあって、うまいこと考える人がいるんだなあなんてヘンな感心をしたことがある。

「ボロボロ羽幌」はあくまでギャグなのだが、日本海に面した羽幌町は市制を実行しようとした経緯もあるくらい人口のいた町(羽幌町人口水増し事件)であったが、平成9年に1万人を割った。

 羽幌の市街から山に入っていったところに羽幌炭砿はあった。
 昭和15年に築別に太陽産業が開鉱し、築別炭坑の開発とともに羽幌炭砿鉄道株式会社が事業を引き継ぎ、築別−築別炭坑間16.6kmの鉄道建設に着手して翌年16年に開通。この辺りは農業集落から炭鉱集落に変化していき、同年太陽小学校が開校した。

 太平洋戦争中は、戦時中の生産資材、労働力の不足により発展はみられないが、タコ部屋労働者、朝鮮から連れて来られた人々によって炭鉱は続けられた。

 戦争が終わり、戦後復興のための石炭増産が望まれ、昭和22年に上羽幌地区の開発、同23年に羽幌砿地区(三毛別本鉱)の開発が始まり2つあわせて羽幌鉱業所ができる。築別、上羽幌、羽幌の3つの年産量は昭和31年に50万トン、36年に100万トン、人口もこの地区のみで1万人を超えた。

 しかし昭和30年後半になると、石炭産業はエネルギー革命の影響を受けて次々と閉山していくなか羽幌炭砿は合理化(40年に築別、羽幌両砿業所を統合)、機械化によって優良炭を産出していた。
 昭和43年には最高113トン産出が、44年に大断層のため築別東坑が閉鎖されると、45年には西坑も閉鎖し、羽幌坑、上羽幌坑の二山体制にしたが、坑内条件の悪化、流言飛語、労働力の低下により経営が難しくなり、この炭鉱の最高産出量を記録した僅か2年後の45年11月に閉山した。

 
上羽幌坑近辺
羽幌坑近辺
築別坑近辺へ 

参考 羽幌町人口水増し事件へ 

参考  羽幌炭砿の世帯(人口)の移り変わり  
   築別炭砿  羽幌砿  上羽幌  合計
 昭和35年
 
 1,166世帯
5,840人
 495世帯
2,426人
 445世帯
2,111人
 2,106世帯
10,377人
   40年
 
 1,406世帯
6,182人
  768世帯
3,682人
 568世帯
2,592)
2,742世帯
12,456人
   45年
  4月
 −  
4,338人
 −  
4,392人
  −  
2,732人
 −  
11,462人
   45年
  9月
 −  
 607人
 −  
 755人
  −  
 569人
 −  
1,931人
   47年
 
 1世帯
  2人
 12世帯
 55人
 14世帯
 42人
27世帯
 99人
 平成7年
 
 1世帯
  2人
 0世帯
  0人
 9世帯
 27人
10世帯
 29人

閉山に追い込まれた昭和45年は、閉山するかもという流言飛語によって閉山が決まる前の人口の流失が著しく、5ヶ月の間に約1万人がこの町を去っていった。
ちなみに羽幌町の人口は、昭和44年32,095人(6,958世帯)(*)で、昭和50年13,000人台、昭和60年12,000人台、平成9年10,000人台を割る。令和4年は6,400人台である。
(*)国税調査は昭和40年45年、、昭和44年の人口も水増しの可能性がある。



この地へは、平成13年7月訪問し、翌年2001/1/30にこのページを公開した。
2010/10/9、2011/7/24に加筆修正、2022/8/20再編集




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