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ギャラリー

北海道の産業遺産?遺跡? 

      
 

大きな街があった羽幌炭砿(羽幌炭鉱)本編 上羽幌・羽幌・築別お知らせ

羽幌の炭鉱施設を2001年2002年と訪問した記録。

イントロ
上羽幌坑近辺
羽幌本坑近辺
築別坑近辺へ 
スクロールしていけば同一ページ上にすべてがあります。

参考 羽幌町人口水増し事件へ 


上羽幌坑近辺
 羽幌川の上流の道道747号と741号のT字路付近に上羽幌坑があった。訪問した平成13年7月のこの付近は、夏草が覆い尽くした荒地と畑が広がっており、道路から離れているホッパー等の炭鉱跡や学校等の街の遺構は分からなかった。 翌年の訪問時も、遺構ホッパーや学校跡などを発見できなかったが、探せば有る模様。
 羽幌からの道道沿いには、森林鉄道の橋脚跡が残る。

 
羽幌駅を接続駅とした羽幌森林鉄道の遺構が一部残る。昭和15、16年に羽幌市街から、平22線まで約14キロ敷設され、17年から輸送開始。昭和32年には42キロにも達した。トラック輸送が一般的になり38年には撤去が完了した(広報はぼろより)

そして上羽幌地区に入ると、屋根のない煙突とブロック建築の廃屋が出迎える。


道道747号から741号に曲がって少しだけ走ったところには、コンクリートブロックでできた長屋住宅の廃墟群が道路の両側に残っていた。かつてはもっと炭鉱住宅が並んでいたのだが、ここだけが集中して残っている。
訪問時は、インターネット上には有用な情報があまりなく、行って見つけた時にはドキッとしたのを覚えている。


道道南側。見えるのは6棟だが、空中写真を見ると7列ある、草木に被われた長屋住宅は赤い屋根だが、元々は青色で錆びて赤くなっている模様。


 
表札も残るような家もあったかと記憶している。ストリートビュー(2014年)では屋根は落ちている。

道道北側(2001年撮影)草木にそれほど被われていない住宅跡もあった。 それらの中には、道路工事や公共事業の工事事務所として使われたような形跡もあった。


 
道道北側の住宅。最近まで使われていたのか、南側と比べ、荒れた感じは弱い。
グーグルマップ(2022年)では、屋根が一部落ちている。


建物内は、一部壁が取り払われていた。


羽幌本坑近辺
上羽幌をあとにして、道道747号を曙方面に向かい小さな峠を越え、森を抜けてきた道路から突然現れる建造物。異様だ。 三毛別地区の羽幌砿跡である。

車を止めてあたりをうかがうと、立坑、炭鉱の建物、ホッパーが残っていた。 炭坑施設はそのまま放置されたような佇みかただった。ホッパーのみは道道からすぐの場所で内部も見ることができるが、立坑と真ん中の写真の建物の周りは木々が生茂り、近づくのは困難かと思われる。
立坑は木々に囲まれてはいるが、昭和40年完成と建設してから35年くらいと年月が経っていないせいか、古さを感じさせない。


  
立坑と、その下の建物が木々の隙間からちらりと見える。
選炭場の建物は、資産価値を落とすためか内部の設備を取り出すためか意図的に大きな穴が開いている。

 
ホッパー(選炭ポケット)。壁面には、社章と羽幌鋼業所と記されていた看板の一部残っている。

ホッパー前から分かれる林道を進む。

 
道道741号の旧道と林道の分岐点に残る住宅?の煙突と立坑。
林道を進むと、立坑だけが新緑の緑の中から顔を出しているポイントがあった。

 
道を進むと、何軒ものピンク色した壁の炭鉱住宅跡が並んでいた。一部は緑の壁の廃墟もあったが、違いがあったのだろうか?
 
道を進むと、何軒ものピンク色した壁の炭鉱住宅跡が並んでいた。一部は緑の壁の廃墟もあったが、違いがあったのだろうか? また、遠くに鳥居も見えたりしたので、この辺りには沢山の人が住んでいたのであろう。

 
道道741号まで戻り、曙方面へ、遠くに発電所跡の煙突が見えた。
三毛別川に架かる明月橋近くに残る、大五商事羽幌砿給油所跡。
 
曙と三毛別の一部区間を羽幌炭鉱鉄道が借り受けていた名雨線建設地の奥に炭鉱住宅跡が多数残る。
レールまくら木を持出すと 法律により罰せられます 日本鉄道建設公団 札幌支社 と白い案内板がある。
炭鉱住宅周囲は木々が生い茂り自然と同化が始まっていた。



さらに進んでいくと、放置されたかなり大きい中学校、羽幌町立北辰中学校跡の廃校があり、玄関(昇降口)まで行ってみると近所の農家が農作業車両の置き場としているようだった。



築別坑近辺

道道747号を曙まで走ると、ここにも古い小学校跡が残る。


 
もともと太陽高校として使用され閉校後は、北辰中としても使用され、後昭和50年から曙小学校として転用、平成2年に閉校した。
曙小学校に残っていた職員室の予定表には 卒業式、閉校式、惜別会、修了式、お別れ茶話会などの言葉が並んでいた。

ここで右折をし、道道356号を築別炭砿を目指し築別川に沿ってしばらく走ると、正面にピンクの建物が目に飛び込んでくる。

これは太陽小学校跡で、平成13年に訪問する1、2年?までは学校跡を「緑の村」という名で、宿泊施設?キャンプ場?資料館?として運用されていた模様。 学校としては大きな学校であったようで、この山奥でもプールがあり円形体育館も大きく、この地に多くの子どもがいたことがよくわかる施設跡である。訪問時、建物はきちんと封鎖されていたが、しばらくすると侵入者が現れ、荒れ果てた状態になっている。

 


ホッパーの裏山には選炭場の遺構が見える。

道道を進み、緩やかなカーブを曲がると羽幌砿とは形の違うホッパーが現れる。この辺りまで炭鉱鉄道が伸びていた。
さらに道道を少し行くと交差点があり、その角には朽ち果てた病院跡と、橋がある。 病院を道道から見ているものであるが、真っ直ぐな 道道を作る際に、病棟側?は壊されてしまったようだ。残された建物にも建築跡が残る。
 
築別炭鉱病院の一部が残る。病院小さいって思いがちだが、道路拡幅で手前側の建物が壊された。屋根の跡が残っているのがその遺構である。
この辺りが町の中心で、辰巳橋を渡ると、消防署庁舎が朽ちた姿で残っていた。

右側には、炭砿が発展すると共にあった古い住宅地に昭和44年に近代的な鉄筋コンクリートアパートが、4棟草木の中に眠っている。建築時期が閉山する昭和45年直前のものでここに引越してもすぐ閉山で引越をしたと思われる。 この道路の先を探索しようと思ったが、道も悪いうえに、草木に阻まれた。
この周りにはたくさんの住宅が並んでいたが遺構は残っているかは不明である。。

 
消防庁舎の裏から、残る近代的住宅を遠くに見る。
この建物より古い集合住宅は令和になっても多々残っているが、こちらは壊されることもなくずっと残るのであろう。

 
遠目から、人が住んでいないのが不思議な感じであった。
令和の現在、屋根が朽ちてしまって周辺の木々の成長も進み荒廃が進んでいる。

2001年訪問時、上記アパートを見て帰ろうとしたら、羽幌町?の職員がアパートの入口付近で、重機を動かしていた。何をしていたのだろうか?

 
消防署の裏は、炭鉱の施設があった付近で、背高のっぽの火力発電所の煙突が目立つ。 ほかにもコンクリートの基礎、娯楽の場であった築炭会館内の映写室の高い櫓があったり浴場跡(未訪問)があったりと、ちょこちょこと遺構が残る地である。

炭鉱病院の先の道道を進むと、2股に道が分かれる。
そのあたりから川の対岸にコンクリートの廃墟が見える。 これは、前出のアパートの前の道を進むと行けるようだ。 道が2股に分かれたところに、写真ではわかりにくいであろうが、坑口?だか排気口?と思われる遺構があった。近くに行って確認したかったが、軽装なので草木に阻まれ近づくことはしなかった。

 
白い建物が対岸に残る。また、木々に隠れて排気立坑が見えた。写真は道道から見たもの。

築別炭鉱を後にし、道道356号で海側へ戻る。 道道沿いには、1941年に築別と築別炭鉱間で営業開始した羽幌炭礦鉄道跡が寄り添っており、河川には橋梁が残っている。 特徴的なこととして、戦時中全国から寄せ集めて作られたガーター橋でつくられており、橋桁は、その鉄橋の長さに合わせて作られており、形もまちまち。 戦時中の突貫工事、これは戦争遺跡ともいえるのではなか?

 

 
羽幌炭鉱鉄道は、昭和16年に開業し、羽幌炭鉱の閉山とともに昭和45年12月に廃止となった。昭和35年から41年に製造され活躍した気動車キハ22型活は、茨城交通に譲渡された。
1997年に旧来の羽幌炭鉱鉄道色に復元され営業し、同年中に廃車となり、阿字ヶ浦駅に長く留置されていたが2009年解体された。2006年12月撮影、一部の窓が割れ補修されていたが、連結側に特徴的な旋回窓も残っていた。潮風にあたり錆がいたるところに見られた。

 3つの炭鉱跡地は空知の夕張や三笠周辺の炭鉱跡とは異なり、生活感が無いゴーストタウンと呼べてしまうが閉山して30年も過ぎていることは何故か感じなかったのが不思議だった。

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