釧路町難読地名巡り その2 冬窓床ってなんて読むのさ〜?お知らせまだまだ、難読地名は続くからね。でもって、さらに読めないからね。 |
丸山 (まるやま)和名丸山は、海抜205Mで釧路町で一番高い山で、沖合いの船からも目印になる。昔は麓に1件の宿があったらしい。 フクロウの案内板のそばには、山側に登る悪路があったので30Mくらい走ったが、断念した。 道道142号は、北太平洋シーサイドラインと名付けられているが、完全に海岸沿いを走るのでなく岩が切り立った丘陵の上を走る。 |
8、分遺瀬(わかちゃらせ) 水が滝となって落ちているところ円山から、分遺瀬に向かって走るのだが、フクロウの案内板が判り辛い場所にあり、ひとつ先の9.賤夫向まで走って戻って探したが、なかなか見つからなかった。それだけ見落としやすい場所にあった。 ここは昔、滝に下に民家があって滝の水を飲料水としていたが、現在は道道沿いに民家がある。 ここから海岸線に下りる道がある様子だが車は通れない感じだ。この辺りにも地図にない古地名がある。 龍神口(リュウジンコウ) 和名、分遺瀬からオタモイまでの岩礁や岩場の所。陸路が無く、干潮時でなければ行けない。奇岩が蛇神の口に似ているが、根拠はない。 |
9、賤夫向 (せきねっぷ) 樹木の少ない山で、石落ちるところ分遺瀬の場所を通り過ぎて賤夫向に来た。道道は、このあたりが一番海に近く、ここには太平洋を眺望するために設けられた大きい駐車場がある。その手前にあった昆布干場から海岸線に下りる道があったようだ。 名前のいわれ通り、落石がよく起こりそうな絶壁がある。また、風が強いせいで樹木も少ないのであろう。 |
10、入境学 (にこまない) 川尻に流木が集まる川賤夫向から道道を走ると、案内板が現れる。左に「汐見」と書かれており、なんだか単純な地名だな〜なんて思っていたら、曲がり角にフクロウの「入境学」の地名案内板あった。 曲がってみようか、みまいか…。 通り過ぎて暫く走ってここまで来て行かなかったことを後悔?するのもなんだな〜って思って引き返して道を曲がる。道を今までの側道のように下っていくと、畑のある家、やや大きめな倉庫?などがあった。 ところで汐見という地名は、昭和15年頃の戦時中に部落会が設置され、地名改正をきっかけに和名とした地名である。入境学から分遺瀬までを汐見地区とした。現在は汐見と入境学のどちらが正式名称なんでしょうね? |
11、初無敵 (そんてき)沼のような静かな浦初無敵、ここを訪問する前に見ていた「道東情報探検隊」のHPで、この地名を見てなんだかとっても素敵な名前だな〜なんて思っていたので、楽しみに訪問しようとしていたら、見事に案内板を通り過ぎてしまった。引き返すとすぐ発見できたのだが、入境学のほうから来ると判りづらい。 付近の写真を撮り忘れたのだが、丘陵の上は何も無かった。原野で無人地帯、昔は海岸沿いに人が住んでいたみたいだが海岸線の侵食により人がいなくなった。 |
12、冬窓床 (ぶいま) 海の中に立っている岩初無敵からさらに進むと、左に「冬窓床」と書かれた案内板がある。 そうです。とうとう現れました。「ぶいま」なんて絶対読めないよ…。なんて読むのさ〜?って…。 とりあえず行ってみよう。 入口は道道を道を付け替えられたため斜めに入って行き、すぐ直角に曲がる。細道を下っていくとそこは…なんと…行き止まり!!。 おお〜、案内板でてんじゃんよ〜。 行き止まり部分は、スペースが広く、車を突き当たりに止め散策開始。 行き止まりだと思っていたら、写真の車を止めた右横の部分から、人がやっと歩けるような道?、正確に言えば歩いた跡がさらに下まで続いていた。 少し先には滑車の付いた鉄の枠組があり、何かの施設跡かは判らない(後でなんとなく判るのだが…)。 下のほうを見ると波消ブロックがあり、その横には建物(写真の白い部分)がある。写真で見てもらうとかなり海岸までは遠いけれども、ここまであの道が続いているのでしょうかね?もしここに人が住んでいるのならば驚きである。そもそも冬窓床は船で行く場所なのではないのでしょうかね? さて車に乗って引き返し坂を登ろうとしたら、草叢にに鉄の籠が放置されていた。これを見て初めて先ほどの鉄の枠組が簡易ロープウェーの支柱なのではないかと想像できた。 籠がこの斜面を行き来していたのかと思うと、ここは凄い場所だとつくづく思った。 そして、この冬窓床という字の地名がとても似合っているように感じた。ところで、冬窓床の案内標識を見てここを訪問する人はどのくらいいるんだろうね? この辺りの海岸には、ローソク岩と呼ばれる奇岩がある。 2021年現在、道道からの案内板から冬窓床の文字は消されている。 |
12、跡永賀 (あとえが) 昔、海であったところ驚愕?の冬窓床を後にして、次の集落の跡永賀へ。 跡永賀は初無敵、冬窓床を含めた総称でもある。自然の舟入澗があり、昔から定置網などの漁法をこの辺りではやっており、大正時代に釧路の業者がタコ加工場を設置した時期もあった。またここは昆布森に次ぐ規模の集落だった。 集落に向けて走ると、前出の通り今までの集落よりは規模が大きい。これを裏付ける跡永賀小学校(昭和55年廃校)があった。廃校時は、児童9名だった。 |
14、浦雲泊 (ぽんとまり)船がかりが出来る小さな入江案内板の裏にはスクールバスの待合所があるが、集落まではどの集落もそうだが結構距離があるし登り坂。 寒村が絵になる・・・。 ここの集落の裏山には炭鉱があり、当時は石炭を海上から搬出した。それはそうと、「ぽんとまり」も読めないよな〜 知方学ってなんて読むのさ〜?釧路町難読地名巡り その2へ 又飯時ってなんて読むのさ〜?釧路町難読地名巡り その3へ |
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