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北海道の産業遺産?遺跡? 

      
 

雨竜炭田 浅野炭鉱 と 昭和炭鉱 (イントロ)お知らせ

雨竜炭田 イントロ
浅野雨竜炭鉱 太刀別鉱
明治鉱業昭和炭鉱 

 空知支庁雨竜郡沼田町の浅野炭鉱と昭和炭鉱のあった留萌炭田内の雨竜炭田は、沼田町の大部分と、隣接留萌市、小平町の一部を合わせた広大な地域にまたがり石炭埋蔵量は2億3千万トンを擁する豊富な大炭田と称されていた。


 この雨竜炭田の発見については正確な記録は残されていないが、明治20年以降にこの地区の実地調査が行われたのが始まりと伝わっている。この地区で採れた石炭は硫黄分の少ない火力が強烈で工業用並びに一般用としてきわめて有望な石炭であった。そのため大正15年当時北海道第二期拓殖計画の際、この雨竜炭田開発の必要性が認識され、先ず炭鉱鉄道の敷設、留萌港の整備を必要とした。
 この頃は石炭界は不況であり、昭和5年は前年の炭価の半値まで暴落して出炭制限をしていたが、昭和3、4年ごろ明治の松本健次郎、浅野の浅野総一郎らが沼田町奥地に技術者を動員し、昭和5年1月明治鉱業昭和鉱業所が開坑、同3月浅野雨竜炭鉱も開坑し、翌昭和6年5月に出炭を開始する。
 炭鉱鉄道(留萌鉄道)はこの地域の炭鉱所有者によって昭和4年4月に工突貫工事を開始して、昭和5年7月に恵比島ー太刀別間14キロ、10月には延長して昭和まで3.6キロ開通した。また留萌港の船積線も開業したがこちらは昭和16年に鉄道省に買収された。
 不況時代も、昭和6年9月の満州事変を契機に国内産業の全面的活況を促し、石炭界も好転してきた。戦争に突入すると強行出炭を続けるが、敗戦と共に出炭量は41%減少(昭和19年275,800トンが昭和20年113,600トン)した。このうらには強制労働もあったでしょう。

 戦後何年かは、強行出炭による坑内の荒廃、食糧不足、輸送難などから労働者は食料窮迫、生活困窮に悩まされ労働組合を組織し、激しい労働争議が繰り返されたが、経済再建意識が高まり坑内施設の復旧、政府の石炭政策が功を奏し徐々に石炭の産出量が増えていった。そのような中、昭和27年浅野雨竜炭鉱は経営困難のため古河鉱業に鉱業権が移譲された。

 また、昭和30年代になるとエネルギー革命のために石炭産業の体質改善のための合理化が急速に進められ、地域住民の生活防衛のため町一丸で産炭地進行対策に関連する運動が展開された。
 しかし雨竜鉱は大手の古河鉱業によって施設の充実化を図ったが、赤字の累積のため昭和43年11月20日閉山した。閉山時の従業員は227人と僅かであった。昭和48年雨竜中央ダム建設計画が生じて平成4年沼田ダムが完成して炭鉱住宅街は水没した。

 また、明治鉱業昭和炭鉱は合理化に努めたが、坑内状態の悪化(断層)のため出炭は計画通りには行かず、大手企業にかぎって早急な閉山は無いものという一般の予想を裏切り、昭和44年4月30日をもって閉山した。全盛期の昭和29年は3,800人いた人口は44年には2,200人(従業員577人)に減少していた。閉山1年後には無住となった。

 留萌鉄道も昭和46年4月に廃止された(44年の閉山時から休業していた)。

 2002年忘れられた町2として旧サイトにて公開したものに写真を追加した。当時の文面をコピペしたサイトがあるが、こちらが先に記載したことを報告しておく。

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