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北海道の産業遺産?遺跡? 

      
 

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 太刀別鉱跡を過ぎ、道道から分かれた林道をしばらく走ると昭和地区がある。


ポロピリ湖の展望台にあった地図を参考にしてみると、小中学校や住宅が道路沿いにあったことがわかる。
炭鉱までの道の横には石炭を運んだ留萌鉄道の跡が並走する。

 
林道沿いには、留萌鉄道の橋脚跡が点在する。
2001年10月と2002年4月訪問時は林道は車が走れる状態だったが、2021年現在では路面崩壊もあり車はもう入れない模様。

道沿いには、コンクリートブロック住宅?(玄関と部屋割りが住宅だったのかが微妙)が残っている。(玄関と部屋割りが住宅だったのかが微妙)だけど建物内にも木々の芽が吹いていた。
 
 
途中橋が架かっていた。橋の名前は明治橋。記憶がもう薄れているが、上記地図の小学校付近の川がトンネル上に抜けているところと思われる。

 
橋のあたりで撮影した写真にレンガで出来た遺構があった。
また建物が残っている。おそらく小学校付近。

 さらに進み橋を渡って昭和地区の核心部へと…。
 橋は老朽化しており、川による土壌の侵食のため橋に穴があいているので車も慎重に走らせる。

 
橋の袂は崩壊していて、危険を示すテープが張ってあった。写真は来た道を振り返っての撮影。
この橋の横に、留萌鉄道の昭和駅があった模様。何も残っていない様子。

 この付近は護岸工事がしていないので川沿いの道は路肩が川によって削られているので注意が必要だし、雨が降って地盤が緩んでいるときはなおさら危険度が増しているはず。携帯の電波はもちろん届かない人がいない地区なので熊も絶対にいそう。そういう意味で超危険地域。

 
2001年秋断念した地点での撮影は、2002年春訪問でコンクリート構造物が姿を現わした。

 2001年秋にこの場所に来たのだが、橋を渡ると悪路と周りの高く茂った植物によって進行不能となり、橋を渡ってすぐコンクリートの建物跡がなんとなくあるなあというのを確認して、こんなところに来ると不気味な雰囲気で1人で心細いので探索を打ち切った。後で調べたらこの建物は選炭場であった。

 2002年春、友人を誘ってこの地区を再訪した。秋は枯れ草が生茂って見えなかったものが春初めでは見ることが出来る。悪路だった道もじゅうぶん悪路なのだが、枯れ草が倒れている(積雪のため)ので断然走りやすい。橋を渡ると、秋には気付かなかった鉄道のターンテーブル(転車台)跡の丸いコンクリートの窪みが選炭場の手前にあった。


雪解け水もあるので足場はそう良くないので、深入りの探索はしなかったが、一目でターンテーブル跡とわかるサークルが在った。 上記の写真とは順番は逆になる。

 
操業時末期と訪問時の昭和炭鉱選炭場。遺構の付近は水浸しで近寄らず。

 選炭場の道路をはさんだ反対には、入口の小さいトンネルがあり展望台にあった地図では「隧道内部マーケット」と書かれているが、雪深いこの地ではお店がこの中にあったのかは調べることが出来なかった。


隧道マーケット内部は、2002年公開時に検索サイトでヒットするページは無かったかと。探索オフ会の報告がWebに載ることでその存在が明らかになっていったと記憶している。


浴場跡?

 選炭場から悪路をさらに行くとそこには、朽ちた炭鉱住宅が放置されていた。秋にココまで来たかったのだが、前述のように枯れ草が生茂り、200〜300M進むことが出来なかった。
 
炭鉱住宅のあるところまでこの先まで車を乗り入れた。手前に見えるレンガの建物は地図では処理場と書かれている。

 建物の先まで行くとさらに道が続いてたが、クロカンタイプの車じゃないと行くのは無理そうだったのであきらめる。地図ではこの先にも住宅が広がりプールもあったが今はどうなっているのだろう?。写真がないので、プール跡は見なかったのかもしれない。

 
コンクリートブロックで出来た炭鉱住宅が並ぶ。職員が多かった昭和20年代後半には建てられたかもしれない。

 
外観が赤とクリームのツートンカラーに塗装されたものもあったが、手前側のコンクリート色で無機質な建物も、白か薄緑に塗装がされていたであろう。

 
操業中の昭和鉱住宅街、右本町と左本町。屋根が雪の重みで朽ちているが、当時の繁栄を見ることが出来た。


橋まで戻り、さらに山奥に行くと川に浄水場の跡が木々の隙間から見ることが出来た。
2001年秋、2002年春訪問。

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