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ギャラリー

北海道の産業遺産?遺跡? 

      
 

夕張炭鉱住宅跡を訪ねて 高松 社光地区をメインにお知らせ


 夕張炭鉱は、1890年(明治23年)に開坑して以来1977年(昭和52年)に閉山した。志幌加別川の狭い谷間に炭鉱施設や鉄道の駅が集まり、谷の斜面に炭鉱住宅が建ち並んでいた。閉山になり役目の終わった炭鉱施設も1981年(昭和56年)「石炭の歴史村」に生まれ変わって、炭鉱住宅も順次壊されていった。
 夕張の街は、石炭とともに発展したが、閉山とともにピークは昭和35年11万7千人いた人口も平成4年には2万を割った。平成19年には深刻な財政難となり財政再生団体に指定され、平成25年には人口は1万人を割った。

 今回の旅は、2000年5月に朝日新聞で、最後?の夕張炭鉱の炭鉱住宅街を壊してしまうよという記事を見てこの炭住に興味を持ったので、5月後半に夕張市社光、高松地区に出向いた。
 この日を逃すと炭住が壊されてしまう可能性があったので雨の中、夕張に向け札幌を出発し、栗山までは空知南部広域農道(夕張鉄道の跡)をメインにドライブし道道札幌夕張線で夕張へ。


 鹿ノ谷駅で小休憩し、まずはこのあたりの住宅をめぐってみる。鹿ノ谷の駅裏の山までのスペースには空き地が広がり石炭列車がたくさん発車してたころはさぞかし賑やかだったであろう。駅から西側の斜面の炭住は人が住んでいるところも多く、まだこの辺りの炭住は壊されずにいられるこてでしょう(1)。対照的に駅裏はなんとなく壊されてしまうのかな〜って感じがした(2)。
(1)(2)

ちなみに西側の住宅(1)はまだ残ると思っていたが、比較的すぐに壊された。(2)も間もなく解体された。

 そして今日のメインとなる社光、高松地区に向かう。車から見る夕張の街並みはどことなく淋し気であった。これは雨が降っているからだけではない何かがそうさせているような気がした。

(3)(4)

 高松に到着すると、解体作業準備として道路沿いに金属の板壁で住宅地が覆われていたが、住宅地内に足を踏み入れると、まだ生活感のある感じがした。2階建ての赤い屋根の建物が並んでいる。
 そして一軒の建物の2階へ。高松地区から志幌加別川方向を見ることが出来、対岸の斜面にも昔はびっしりと炭住があった事がうかがえた(3)。中に入ってみると、広さはここに家族4、5人住んでいたらちょっと狭いであろうという大きさで、お風呂は無かった。台所にはマッチ(近藤真彦)の雑誌の付録ポスターが貼ってあった。またストーブは頑丈で、もちろん石炭を使うタイプのものが家の真ん中にあった(4)。

(5)(6)
 そして高松の炭鉱住宅と共同浴場をつなぐ跨線橋があり、橋の向こうには共同浴場、太陽灯浴室が閉鎖され中には入れないものの生活感がまだ残っている感じがした(5)写真は2001年6月。橋中央の街灯がなかなかコジャレている高松跨線橋は、北炭夕張専用鉄道の上に昭和11年にかけられた(6)写真は2002年のものでそれ以前は橋の下に配管があった。
 平成17年(2005年)に「北の零年」希望の杜 としてロケセットが移築されて現在放置されている模様。

(7)(8)
 高松の炭鉱住宅2000年(7)と2001年(8)、だいぶ雰囲気が異なる。
 後、石炭の歴史村ファミリーキャンプ場として整備されたが2021年現在閉鎖中である。

(9)(10)
 高松のとなりの社光は対照的に、1階建ての青い屋根の長屋が並んでいた。建物の中に入ってみると畳が無くなって床板までもないところや、長屋の壁を打ち抜いて広くして使用していたところもあった。庭に花壇を作っていた家は、こぼれた種から咲いたであろう綺麗な花が雑草に混じっていた(9、10、11)。

(11)

 1時間ほど滞在し、僕は消え行く街を後にした。当時を振り返ると、デジカメの他にAPSカメラも持って行っており、デジカメではあまり撮影しなかったので写真が限られるのが今思うと残念である。

(12)(13)
翌2001年の社光の住宅街(12)は、郷愁の丘ミュージアム計画構想により、2012年訪問時は、花の丘として桜の木が植林されている。

2001年に公開した内容に、2022年1月写真追加改訂した。

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