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ギャラリー

珍北海道紀行 ROADSIDE HOKKAIDO > 石北本線忘れられる駅

      
 

天幕駅お知らせ


 天幕、とても綺麗な名前である。天幕のことについて詳しく(マニアックに)述べる。ソモソモこの名前の由来についてはいくつかの説がある。



1.天然自然の天容地形から起こったとする説
2.かつて測量隊の基地となったときに、天幕七張をはって宿営を続けたのでそれから起こったとする説
3.清水三次郎が天幕を張って暮らし、自称天幕三次郎といったところから起こったとする説

 記録的には明治43年刊行の当市の愛別町史「中央農村」に『まるで天の幕を垂れたように思えるこの景勝地を三次郎自らが命名して天幕とし、自ら天幕三次郎と称した』と記載されている。
 三次郎が天幕の地に入地した年は明らかではないが、明治22,3年頃北見道路(今の国道)工事のときに開拓をせず単に入地第一号とすれば彼である。明治39年12月6日吉田米蔵(鳥取県)が土を求めての入植第一号である。
 大正6年に留辺志部尋常小学校分校(昭和12年小学校昇格)が開校し、昭和4年石北線開通、同6年天竜鉱山付属精錬所ができ、同28年木材景気により木工場が進出した。
 昭和15年、鉱山は閉鎖された。この鉱山は自産の鉱石が無く買鉱(他山からの購入)だった。40年後半、木工場が他地区に転出すると住民の流出が激しくなった。
 ちなみに人口(世帯)は昭和35年344(68)、同45年142(39)、同55年22(8)で同60年8(2)である。殆ど今は人がいないのである。

 能書きはこのくらいにして、上川から国道273号を石北本線と平行して走り、左手に踏み切りがあるところを曲がるとそこは国道の旧道である。僕の持っている昭和51年の道路地図ではまだ国道はこちらの道を走っていた。そこをまっすぐ行くとそこに天幕の駅がある。

旧道の入り口から駅までの間に民家は1、2件しかないので静かなところと思いきや、ダンプが駅前をたくさん走っている。自分のこの駅への先入観は静かなところであろうと思っていたけれども、裏切られた。なんと駅前は一般廃棄物保管施設(伐採物)になっていた。ここに向かってダンプが来るのである。駅前がこのようにゴミ捨て場な所なんてほかにあるのだろうか?
 

 

鉱山の出現によって駅前に飲食店も出来た時期もあっ部落の盛衰を見つめてきた駅舎。 駅の裏には国道が走っているが国道には出られない。線路は昔といっても最近まではすれ違えるようになっていたが、片面ホームのみとなっていた。駅を眺めた後、この旧道をさらに奥に進む。駅からちょうど400mくらいの場所に白い建物の廃墟が眠っていた。

「旭川−北見間 第二電話中継所」と書かれていた。建物の入り口までは、木々が生い茂りとても近づくことは出来ない。更に400m進むと小学校の跡がある。ここは上川町が建てた石碑がある。



天幕小学校は、大正6年4月1日開校し、昭和51年2月24日廃校で59年の歴史を刻んだ。生徒数は昭和8年46名、14年105名だが、15年に鉱山閉山で55人に激減。18年には35名。

この辺りに2台の自転車が止まっており、お年寄りが木々の間で山菜?を採っていた。きっと天幕に住む唯一の人たち?であろう。この先には熊注意と書いてあり引き返して来た。  そして国道に戻って天幕を後にした。


訪問日は平成12年6月8日。
 

天幕駅 その後


 

平成13年7月1日に廃止されたその後平成14年5月の写真をここで紹介する。

 天幕駅舎は取壊され、代わりに天幕駅跡の案内板が建っていた。案内板には、
天幕駅跡 昭和4年11月20日開業 平成13年6月30日廃止 駅名の由来 明治29年8月、当時の北海道鉄道部長 田辺朔郎氏が全道の鉄道線路踏査のため当地に入った際、天幕三次郎なる人物に世話になった思い出から駅名を「天幕」とした。 北海道旅客鉄道株式会社旭川支社 

と記載されている。駅前は、相変わらず産廃(伐採物)置き場で駅舎だけが無くなったがあとは代わり映えはない。
 

旧39号を峠側に向かって走ると、「旭川−北見間 第二電話中継所」がありその先に小学校跡があり、さらに細くなった道を進むと開拓跡が広がり雪に押し潰された廃墟との小学校の旧校跡が残っていた。ちなみに旧国道は線路とぶつかり行き止まりである。

 


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