奥白滝駅お知らせ国道333号を白滝方向に向けて走る。北見峠標高830m地点に、この中央道路開削殉職者の碑がある。中央道路(現在の石北本線と平行する国道)は北辺防衛のため明治24年から造りはじめ、ほとんどが囚人によって工事が行われた。不眠不休の労役のため、死者はたくさんでたためこの碑があるわけだあるが、同様昭和になって開通した石北線も過酷な労働によって造られた(死者多数)ことも忘れてはならない。 ヘアピンカーブを下りていき、チェーン着脱所が見えてきたらそこが奥白滝である。そこからすぐのところに「奥白滝開拓記念碑」があり、その向かいあわせで駅がある(国道から駅まで砂利道が150m)。 奥白滝は、大正2年に宮城団体10戸、福島団体18戸入植して歴史は刻まれ始めた。その後も土地を求めて入植者が増えた。石北線が開通した昭和7年に戸数は112まで増えたが、昭和40年人口212世帯53でこの頃から過疎化が進み、店等もなくなっていき純農家地区となる。昭和50年に人口133世帯21、鉄道の自動信号化された昭和58年に無人の地となる。 奥白滝駅は今までの駅の中で渋いというのか趣きがあるというのか、一番存在感があった。駅前から国道までの距離があるからかもしれない。国道と駅の間は、駅を正面に右が荒地となっているが、かつては何件かの家があったのであろう。左は植林されていた。 残念なことに駅名板が剥がされていた。 駅で写真を撮っていると、オホーツク4号がエンジンを唸らせて通過していった。 駅から離れて記念碑のあるほうに行く。広い空き地とそこに何本かの大きな木があってこの辺に集落があったのであろうことを伺うことが出来る。 白滝方向に進むと一面牧草地の隅に旭川−北見間無装苛 第三電話中継室、さらにその文字の下には旭川−丸瀬布奥白滝電話中継所と扉に書かれている通信施設の廃墟と、。の文字が読み取れる。 天幕と同様の設備だったのか?おそらくその通信施設に関する社宅の廃墟が残っていた。そしてこのまま白滝シリーズを見にむかった。 訪問日は平成12年6月8日。 |
奥白滝駅 その後奥白滝駅跡も駅舎の入口はふさがれており、ホームも撤去されていた。 天幕、中越、奥白滝、3つの駅跡は、廃止以前から無人地区(天幕は人が住んでいる)であり、廃止後約1年の間に劇的に土地の変化があるわけでもなく、またこれからも変化はおそらく無いであろう。特に奥白滝駅周辺は、時代の流れから取り残されたような雰囲気がなんともいえない。 駅廃止後並行して走る国道39号線は中越の先から白滝市街を抜けた場所まで旭川紋別自動車道(無料)が開通し(記事公開時の2003年現在)、北見峠、白滝の中心地は寂れた感が拭えない。たまには便利な自動車道ではなく北見峠を抜ける道を走ってもらえたら幸いである(道は険しいですけど)。 天幕駅 中越駅・上越駅 with白滝シリーズ |
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