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ギャラリー

こんなところ走りました 

      
 

道道675号立待岬函館停車場線 函館山周遊道路計画編とおまけお知らせ

前ページ(45)地点から千畳敷の砲台跡へ行く際に撮影したのが(49)。(47)のアンテナ群を見ているものだが、トイレの横には函館周遊道路計画で途中まで作られた道が眠っている(50)。トイレ裏の笹藪のあたりかな。

(49)(50)
この区間から先は、 訪問時、このことについては知らなかったので、写真を撮っていないので、近くからの写真がない。下記の白黒空中写真を参照にしてもらえると、未完のヘアピンの道が海岸へと続いているのがわかる。

千畳敷の広場は、周遊道路の駐車場として利用するため、本来の地形を平坦化しスペースを拡幅されたのかもしれない。


周遊道路計画については写真の下にまとめた。


国土画像情報 国土交通省の写真を加工したもの
(ローマ字は各要塞、数字は道路の写真番号)

函館山の観光開発について

かつて函館山は、要塞地帯法によって、一般の人の入場は禁止され、写真撮影のほか写生することさえ禁止されていた。敗戦後、軍事的な必要性がなくなったので、観光開発を意図した函館市、や市民等によって山を管轄していた大蔵省へ払下げの陳情をし、昭和21年10月17日、函館山の一時使用の許可が大蔵省からおり、一般市民にもも広く開放することになった。(軍関係の弾薬やその他の危険物の整理が終わるまでは入山しないように通達していたが、実際は山に入って木々の盗伐、山菜採りをする人がいた)

函館市は、国際的観光地にしようと、街の再建復興を願いさまざまな計画を立て、その第一歩として、今までの軍用道路を改良して頂上までの観光道路を造ることとした。

昭和25年、道幅も自動車での登山を前提に設計され、全長3.8キロの観光道路の着工を開始、工事は難工事で頂上までの舗装を待たず、昭和28年5月から市交通局が毎日曜、祝祭日に登山バスを運行開始。夏場には夜景を見るためのバスを運行。翌年の北洋博覧会を前に舗装工事も完成。

昭和27年、山頂の第一御殿山砲台跡を利用して、喫茶室を備えた展望台を設置することが計画され工事が行われ、28年5月に完成した(今のではない)。

昭和33年、函館の財政会で構成出資する函館観光事業株式会社が設立され、ロープウェイ架設工事をし、11月に営業開始、昭和63年に函館市も出資する第3セクター方式に変わり、当時日本最大の125人乗りのロープウェイに代え、函館山観光客を一気に増加させた。

昭和28年、山頂の第一御殿山砲台跡を利用した喫茶室を備えた展望台が完成した。
写真はネガが反転していたため

敗戦後は経済復興が求められるなか、労働者の失業対策事業の一つとして、昭和25年んに御殿山山頂までの登山道路、昭和27年に立待岬から穴澗までを結ぶ道路も建設開始、御殿山山頂から千畳敷、碧血碑から立待岬などでも道路計画、着手がされていった。

道路工事によって鳥類や、植物群が犠牲になる影響もあり、観光か自然保護かといった議論も一部ではされていた。昭和34年、「函館山植物誌」が出版され、その植物の多さを証明した。また、昭和32年に休猟区、昭和37年に鳥獣保護区、39年に特別鳥獣保護区に指定された。

昭和40年代になると、道路建設をめぐる議論は活発化された。登山道の建設によって、大量の車が山頂まで乗り入れるようになったため、駐車場の問題、渋滞が問題化された。その解決策として、山頂から、立待岬へと循環させるための下山専用道路、所謂」函館山周遊道路」の建設に焦点が当てられた。

当初失業対策事業だった道路建設も、昭和42年に公共事業に切り替わり、本格的に5年計画で開通させることが決まった。昭和44年に千畳敷まで道路が完成し、翌45年11月から残りの部分の建設も始まった。道路工事により、排出された土砂もそのまま放置されたままであったようである。46年から中断されていた。

このころより、自然保護運動の高まりを背景に周遊道路の反対運動が活発化されてくる。自然保護協会はすべてを反対するわけではなく、道路建設に対して破壊を最小限にするために周遊道路の代替案を出したが、函館市は、すでに道道に昇格させた経緯があるので、立待岬コースの変更は困難としていた。

函館山の自然保護に関しては、市が国から管理を任されて以来、道路や電波塔建設による自然環境破壊が目立つと函館行政監察局からも懸念が示されていた。

その後、函館市は函館山周遊道路の基本計画作成を日本公園緑地協会(現在天下り先?)に依頼したが、函館市との疎通(根回し?)が不十分だったため、協会は道路建設反対へ傾き、自然公園として最大限利用することであるという基本計画報告書が提出された。

当時の函館市長は、昭和50年、周遊道路建設は白紙に戻すと表明した。その後、函館山の真下のトンネル計画や周遊道路建設の議論が何度かされたようである。
(函館市史通説編第4巻参照、  情報協力 北海道 道路レポート “カントリーロード”)


(51)(52)

(53)(54)
立待岬の駐車場(ここも要塞の名残の地)付近には、周遊道路計画の名残が簡単に見れる。
(51)の右側の斜面は未完の道路跡で入口は(52)のようになっていて雑草の道で、それを横から見たのが(53、54)、一昔前の石垣が残る。

以下は、函館山の他の道を一部紹介する。

前ページの(40)地点から上に登っていくと千畳敷砲台がある。道はこんな感じ(55)。道道とは違い、作業道なのである。写真の先のアンテナのところに訪問時、北電のバンが止まっていた。
(40)(55)

(56)
そしてこの道、にはこんな石柱が。道道区間にも何本かあって、(56)は道道にあったもの。 1.5A2/2.1M/昭46 と記載されている。作業道区間にあったものは、2.1が1.1になっていた。

(37)(57)
前ページの(37)地点では、新道と旧道が交わるのだが、帰路は旧道を進んでみた。道は(57)のように車1台は通れる道幅があるが、現在は遊歩道。途中ベンチがおいてあるやや広めのスペースは待避所だったのだろうか?。道の横には石垣が続く(58、59)。
(58)(59)

(60)(61)
(59)先にはでは、四阿(あずまや)?などの施設がある。
その施設裏に(60)のような要塞の遺構がここにも残っていた。 道を下っていくと、麓に降りる道(前々ページの(7)へ続く)と、つつじ山駐車場(御殿山砲台方面)への道が分岐する(61)。(小学校の遠足とぶつかってしまって写真は遠景しかない)

(62)(63)

(64)
つつじ山駐車場方面に進むと、やはり道幅は車の通れる幅で、ヘアピンカーブの連続で勾配を稼ぎ(62)、(63)程度の勾配でつつじ山駐車場に進む(64。

このページの道路
路面★★★☆☆
景色★★☆☆☆
2006年5月2日通行

道道675号 函館山登山道編  
道道675号 車両進入禁止の砂利道編 
道道675号 函館山周遊道路計画編   以上3編

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